アーチェリー物語【親子編】29. 運命



今朝から全身が心臓に生まれ変わった。

頭のてっぺんから爪先まで鼓動が響き、思うように体が動かない。

体には別人の手が付いているよう。長男からのLINEに返信するのも一苦労だ。

琉乃は、ガチガチになっていた。

幸い、大峨にガチガチは伝染していない。昨日と同じ動作、表情に一安心する。

「もしもし琉乃さん、氷みたいにカチコチなんですけど〜」

「あー、うーんん、そう、そうね〜」

口も上手く動かない。玲子が吹き出したのを見て、氷が少し溶けた。

間もなく二日目、十二メートルのスタート。

運命の日。最終順位は、二日の合計点数で決まる。そして、三位に入れば強化選手だ。

大峨の目は、目標のど真ん中を射抜いている。

舞台は整った。




スマホを持つ手が小刻みに震える。

十二メートルは的が近く、当たり具合がよくわかる。

それでも速報を更新する瞬間、隣の玲子に伝わるんじゃないかと思うほど、鼓動が体を揺さぶる。

大峨は六位スタート。決して悪くない。

晃史などトップクラスは、満点を取るくらいの勢いで当ててくる。十点が当たり前なので、ミスは許されない。

昨日の貯金は一エンドで使い果たした。でも、想定内。いつものように、これから調子を上げてくるはず。

勝負はこれからだ。


一エンドごとに琉乃の鼓動は静まる。

写真を撮る余裕も少し出てきた。

大峨は尻上がりに順位を上げ、三位に届こうとしている。順調だ。

晃史は終始一位をキープ。やはり強い。

距離が短いこともあってか、あっという間にハーフタイムになった。

大峨は三位。

その調子が後半も続くことを願う……。




ハーフタイムで、急に大峨周辺の空気が一変。先生が大峨のもとに走る。

弓の調子が悪いのだろうか。目を皿のようにしてチェックしている。その目がハンドルの一箇所に集中した。

そこをジロジロ見て、弦を引いて確認すると、琉乃のもとに走ってきた。

「鶴中さん、予備弓の準備をお願いします。音が少し変というのでチェックしたら、ハンドルにヒビが入っていました。今から交換します」

予備の道具は持っているが、組み立てていなかった。琉乃は慌てて準備し、先生に手渡す。

「弓具破損の救済措置はありますが、不安を抱えながら射つのは良くありませんし、もし射った瞬間に折れてMを射ったら終わりなので、この間に交換します」

「わ、わかりました。お願いします」

先生は急いで弓を組んでいく。大峨はメモを見て、セッティングの確認。

琉乃は立ったまま……。何をすればいいかわからない。先生がいるので、手伝うことはない。

大峨に声をかけようとするが、「大丈夫?」とか、「頑張って」しか浮かばない。

「楽しんで」、「気楽に」は違う。

「冷静に」、「いつも通り」も同じ。こんな言葉に意味はない。

気の利いたことを言いたいけど、頭が回らない。何を言うべきか、何を言えばいいかわからない……。

でも、とにかく何か言って元気づけなければ。

「大峨……」

とりあえず声をかけた。

「大丈夫!」

大峨は琉乃の手を軽く押し返し、いたずらっぽく笑った。

琉乃はハッとした。あの時と同じ顔だ。

以前、ドラム体験が終わって、「何が一番楽しかった?」と聞く。

大峨は「一番は、お母さんが喋らなかったこと!」と言って、いたずらっぽく笑った。

その時の笑顔と同じだった。

あの日、久しぶりに親子で心の底から笑い合えた。鮮明に蘇る。

「……うん、わかった」

口を出すべきじゃない。琉乃は後ろに下がった。

息子が大丈夫と言った。それを信じる。

もう親の出番はない。気の利いた言葉も何もいらない。

温かく見守るのが親の役目。手を合わせ、祈るように二人を見守る。

幸い、交換はスムーズにできたようだ。

大峨の表情は悪くない。むしろ、引き締まった良い顔つきになっている。

きっと大丈夫だ。




練習では問題ないのに、なぜか試合で弓具破損が起こることは多いと聞いていた。

アーチェリーあるあるだ。今回のヒビもそうだろう。

こうなる運命じゃなく、ただの偶然だ。仕方がない。

試合に限って壊れる。大事な場面で何か起こる。

人生あるある。そういうものだ。

でも、今の大峨なら大丈夫。信じて精一杯応援しよう。


……何事もなかったように、運命の後半がスタートした。



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